蜜柑のプロジェクトverβ

シホンシュギ、ヒャハー

成沢光、1997、『現代日本の社会秩序――歴史的起源を求めて』岩波書店

現代日本の社会秩序―歴史的起源を求めて

現代日本の社会秩序―歴史的起源を求めて


フーコー的な。

「近代的」社会秩序形成(例えば、「汚れや暗がり、雑然とした(効用性の低い)ものは周辺または外部に排除され、内部は「整理整頓」が行き届いている。標準尺度で設計され、人工的に引かれた直線を基礎に、凹凸面や起伏をつぶし、平面で滑らかにした面を主体として構成される空間である。p1」など)過程、その原点を考察。

「短期的に、全階層に一様に浸透したのではむろんなかったp90」としながら、このような秩序形成は明治二、三〇年に形成されたとする。
主に、考察対象とされたのは、
時間(暦、時間割、速度、祝祭日)、
空間(「整理」「整頓」、空間の清潔[<浄-穢>の価値基準→衛生学的価値基準]、開放性と閉鎖性の二重構造、空間の明るさ、空間の人工化:目的合理性→徹底化における秩序評価の美的化、美的基準による秩序評価)、
身体(徴兵検査とその精密化、健康への強制[公衆衛生行政、功利主義、西洋人への肉体的コンプレックス]、食生活、生体の分類、身なり・動作、言語)、
人間関係(機能集団内部の上下関係、同位者関係の自治的秩序)
などがある。


■秩序の形成と効用

さて、<近代>における時間・空間および身体の秩序は、自然性をできる限り排除して人工性を増やすという方向で作られている。自然は偶然性を含み、人間が理解あるいは抑制しにくい、という意味では「混沌」であるが、人間はそれを可能な限り統御可能な秩序で置きかえようとする。標準化することによって均質化し、質の差を捨象し数量化して、理解および操作可能性を高める。その結果、ヒトとモノの品質管理が高度化する。飛躍的に拡大した空間の中で情報・ヒトおよびモノの移動が可能になるとともに、閉鎖的空間における人間行動の組織化が進む。これはそれぞれの集団の目的にかなった秩序づくりの結果であって、合理化・工業化・市場経済化あるいはいわゆる近代化を推進する役割を果たした。秩序の効用である。この秩序に適応しあるいはt適応しようとした者の前に「立身出世」の道が開けた。明治二、三〇年代に、「秩序的社会」「秩序正しくなりつる」社会において必要なのは乱世に名を成す英雄ではなく、「精細緻密なる思想」を学習する勉強家であると青少年に対して盛んに説かれたのはこのためであった。p91-92


ここでの、強調点として注目しておきたいことは、秩序に<美しさ>という基準、観念が意識されてきているという分析だ。そしてその<美しさ>は、以前のものと違ってきている、江戸/明治という断然とまではいかないが、ゆるやかな違い、またその違いを用意するような規律化、制度が現れ始めたということだろうか。

秩序≒理解・操作可能性



■<美しさ>の評価判断:対象、基準の決定と審査、評価者の相互作用、循環関係?
都市の<美しさ>は、対象として選択され(どこを見るのか)、ある基準によって判断され(何をみるのか?)、そして評価者によって結論が下されるという過程がある。というか、どれが最初にありきかってことがさらに重要なのか。評価判断をしたい主体が、対象、基準、評価者を選んで、ゴールまでもっていく的な。いや、しかし、そこにも相互作用があるかもしれないし。さらには、評価者が、資金とか権威とか、影響力とか、大きく行ったら権力的な何かを獲得するために評価者を選ぶ主体(評価者より、なにかもっと上位のもの)に働きかけることだってなきにしもあらづなわけで。例えば、私的団体を公的団体にするとか、何かの催し物に大臣クラスの人を登場させるとかがある。つまり、研究対象を精査しろってことで終了w

アクター間の相互作用によって、決定事項(意味とか使用法とか)が変容していくってことの他に、アクターと判断基準、対象の間にも相互作用的な何かとか発生してないのか。てか、アクターってどこまでのことだったけな。基準(法律とかetc)とかもアクター?

今も昔もってことで。