蜜柑のプロジェクトverβ

シホンシュギ、ヒャハー

ジョン・W・ダワー、猿谷要、斎藤元一訳、1986=2001、『容赦なき戦争-太平洋戦争における人種差別-』平凡社

容赦なき戦争 (平凡社ライブラリー)

容赦なき戦争 (平凡社ライブラリー)


読了。

戦争における人種表象と認識の変遷。


■歴史から学ばなかったこと(太字引用者)

連合国にしろ日本側にしろ、敵の残虐行為にかんするプロパガンダの大部分は実際の事件に基づくものであり、これが敵と味方に引き起こした恐れ、怒り、憎悪は、無理からぬものであった。しかし、いっそう興味深いのは、歴史上様々な残虐行為や限りない野蛮行為が経験された中で、特に大戦中のそうした行為が、敵の国民性を反映した本質的劣等生や不道徳性を確証する材料として使われたということである。双方とも守らなければならないとした「文明」は、そうした衝動を抑えることができず、そして第二次世界大戦では、大規模破壊と個別暴力が昔ながらの方法に加えてさらに新しい方法で繰り返されることになったのである。連合国のプロパガンダの担当者たちが、日本人が過去において犯した残酷行為を指摘した場合も、それは日本の歴史を歪曲しているわけではなかった。しかしながら、そうした行為を日本特有のものとするためには、彼ら自身の歴史を美化するか、あるいは忘れ去る以外なかった。…こうして歴史的事実が無視され、報道が選択され、統一的プロパガンダがなされ、そして実際に野蛮な戦いが繰り広げられるという状況下において残虐行為と戦争犯罪が人種的、文化的ステレオタイプに関するプロパガンダの中心的役割を果たしたのであった。しかし、そのステレオタイプはやがて残虐行為そのものを超え、具体的事実から離れて独り歩きするようになっていった。ブレーミー将軍の味方の絶対的優位についての言及、人非人、猿、害獣と見たてての日本人絶滅の主張、あるいは逆に日本側の自国民の清浄さに対する言及、そして悪魔の敵を懲らしめ、鬼畜米英を殺せという訴えは一見なんでもない普通の表現のように見えるが、実は口から出まかせのものではなかった。こうした表現は、何世紀にもわたって、西洋および日本の文化の中に存在してきた認識の構造に根ざすものであり、残虐行為は単にその真実性を認識するための材料として使われたのである。pp147-149

■日本人分析…イギリス人社会人類学者ジェフリー・ゴーラー、1942年3月掲載論文p232-

この日本人の精神文化の構造に関する唯一の初期の論文の中でゴーラーは、他の西洋知識人の分析において中核となる基本的な考え方の多くを明確に示した。すなわち臨床的に強迫観念にとらわれた、おそらく集団的な神経症の国民であり、その生活は規範と「ご都合主義の倫理」に支配され、不安感にさいなまれ、抑圧された怨念と攻撃性という深く暗い流れで胸が張り裂けそうになっている、という概念である。p237


〜〜〜日本の分析〜〜〜

■桃太郎パラダイム

英米に対する通俗的シンボルとして圧倒的に優勢だったのは、鬼の暴力的、邪悪な本性であった。しかし、宥められたり素直になったりする可能性は常に潜在的にあった。そして戦時中の絵や漫画自体が数種の注目すべき変形を呈し、悪鬼のような敵が絶滅を免れて征服され、愛想のよい鬼に変わりうることさえ示していた。これらの変形の一つは、有名な民話の主人公にちなんで「桃太郎パラダイム」と呼ぶことができる。p420

■日本の占領政策、占領地認識、家族パラダイム

日本が将来、どんな形で世界の主導権を握るにせよ、現在の差し迫った課題は、日本が支配しているアジアの自給自足ブロックを強固にすることであった。そのブロックの効果的な支配を確実なものとするためには、「大和民族の血」が大東亜共栄圏を構成する様々な国々の「土に植えつけ」られることが肝要だった。…彼ら[日本人:引用者注]は移住する地域で指導的な役割を演じ、役割モデルとしてつとめ、現地人の日本との協力体制を確実なものにするだろう。…つまり報告書は、各地域に「日本町」を作るよう勧めていたのである。現地人との結婚は絶対に避けるべきであった―混血児が一般に劣っているからではなく、異人種との結婚が大和民族の精神的な結束を壊すことになるというのであった。pp456-457
――
日本と多民族・他国民との将来の関係にさいた数千ページの中で研究者たちは、共栄圏内の「同化」とは、他の国々を日本の水準にまで徐々に引き上げることのみを意味する、と明確に述べていた。同化の過程において日本を、劣った水準へ引き下げる方向へ導かれないことが肝要だった。現地の習俗は共栄圏というより大きな目標の妨げとならなければ尊重すべきであり、無論「共通の東洋文化理念」も強調すべきであるが、新秩序は日本人の特質に応じて組み立てるべきであった。日本語は同ブロックの共通語となり、日本は「他の諸民族を日本に同化する」ことになるであろう。教化(「思想指導」と呼ばれた)は、情報チャンネルに対する広範な統制を通じてなしとげられるであろう。東アジアの連帯意識を高める芸術、スポーツ、観光旅行が奨励されるだろう。国力はもとより文化に関するプロパガンダが、広範囲に行われるであろう。新しい世界史は、以前の西洋あるいは中国ではなく、日本を中心とする東アジアに焦点を合わせて教えられることになろう。新たに登場する現地人のエリートは、日本人によって育成されることになろう。この無様に拡がった文化的な計画表の中には、日本人が他のアジア人から学ぶべきものがあることを暗示するものは何一つなかった。彼らが「指導民族」としての役割を放棄することを示唆するものも何もなかった。――あるいは権力を公平に共有する時点に到達することについても、何らほのめかしていなかった。家族制度パラダイムには、ただ一人の家長だけが存在しえたのである。(太字引用者)pp470-471