蜜柑のプロジェクトverβ

シホンシュギ、ヒャハー

オタク系文化@東

動物化するポストモダン』2001

■オタク系文化と「日本」の関係

 したがってオタク系文化と「日本」の関係は、集団心理的に大きく二つの方向に引き裂かれてきたと言うことができる。オタク系文化の存在は、一方で、敗戦の経験と結びついており、私たちのアイデンティティの脆弱さを見せつけるおぞましいものである。というもの、オタクたちが生み出した「日本的」な表現や主題は、じつはすべてアメリカ産の材料で作られた二次的で奇形的なものだからだ。しかしその存在は、他方で、八〇年代のナルシシズムと結びつき、世界の最先端に立つ日本という幻想を与えてくれるフェティシュでもある。というもの、オタクたちが生み出した擬似日本的な独特の想像力は、アメリカ産の材料で出発しつつ、いまやその影響を意識しないですむ独立した文化にまで成長したからだ。
 オタク系文化に向けられる過剰な敵意と過剰な賞賛はともにここから生じているが、結局その両者の根底にあるのは、私たちの文化が、敗戦後、アメリカ化と消費社会化の波によって根こそぎ変えられてしまったことへの強烈な不安感である。pp.32-33

敗戦の記憶(アメリカ)【過去】-オタク系文化-ナルシシズム(最先端の日本・消費社会)【未来?】

オタク系文化を媒介として継続する「日本」意識


ポストモダン/ポストモダニズムという認識@東

…この「ポストモダニズム」というのは、前述のポストモダンとは異なる概念である。ポストモダンとは七〇年代以降の文化的世界を漠然と指す言葉だが、ポストモダニズムのほうは、ある特定の思想的立場(イズム)を指す言葉であり、はるかに対象が狭い。ポストモダンの時代には独特の思想がいくつも現れたが、そのうちのひとつが「ポストモダ二ズム」と呼ばれるものだった、と考えてくれればよい。
・・・
当時(引用者脚注:1980年代)日本で流行したポストモダ二ズムの言説は、「ポストモダン的であること」と「日本的であること」を意図的に混同して論じることに特徴があった。当時のポストモダニストが好んだ主張は、要約すれば次のようなタイプのものである。
 ポストモダン化とは、近代の後に来るものを意味する。しかし日本はそもそも十分に近代化されていない、それはいままで欠点だと見なされてきたが、世界史の段階が近代からポストモダンへと移行しつつある現在、むしろ利点に変わりつつある。十分に近代化されていないこの国は、逆にもっとも容易にポストモダン化されうるからだ。たとえば日本では、近代的な人間観が十分に浸透していないがゆえに、逆にポストモダン的な主体の崩壊にも抵抗感なく適応することができる。そのようにして二一世紀の日本は、高い科学技術と爛熟した消費社会を享受する最先端の国家へと変貌を遂げるだろう…。
 近代=西欧に対してポストモダン=日本があり、日本的であることがそのまま歴史の最先端に立つことを意味する、という単純な図式は、歴史的には、戦前の京都学派が唱えた「近代の超克」の反復だと言える。だが同時に、その発想はやはり当時の経済的環境を色濃く反映している。八〇年代半ばの日本は、ベトナム戦争より続く長い混乱期にあったアメリカと対照的に、いつのまにか世界経済の頂点に立ち、バブルへと至る短い繁栄の入口に差しかかっていた。pp.27-29