蜜柑のプロジェクトverβ

シホンシュギ、ヒャハー

インターネットの特徴@東

動物化するポストモダン』2001


■超平面と過視性・・・インターネット関連

以上のようなウェブやゲームやソフトウェアの世界、ひいては私たちが生きるこのポストモダンの世界の特徴を、ここで「超平面的」という言葉で捉えてみたい。この表現は、文字どおり、徹底的に平面的でありながら、同時に平面を超えてしまうという特徴を意味している。コンピューターのスクリーンに代表される超平面的な世界は、平面でありながら、同時にそこから超えるものも並列して並べてしまう。

しかし、コンピューターの世界では、そのような階層関係は説明原理としては正しいものの、物理的にはほとんど根拠がない。というもの、もしファイルの「本体」なるものがあるとすれば、それはハードウェアのどこかに格納された電磁気的なパターンにすぎず、その解釈という点では一六進法もテクストもイメージも変わらないからだ。だからこそそれは、三つのウィンドウとして、同じスクリーンの上に並べることができるし、またそうせざるをえないのである。

このような特徴はいまやコンピューターの世界に限られない。たとえばオタク系文化で言えば、前章で詳しく検討したように、さらにその背景にある萌え要素という異なった階層の情報が、ウィンドウを開くように等価に並行して消費されているという現実がある。現在のグラフィカル・ユーザー・インターフェイスは、このかぎりで、単なる便利な発明にとどまらず、私たちの時代の世界観を凝縮したみごとな装置だといえることができるだろう。pp.154-157

 超平面的なシミュラークルの世界、すなわちポストモダンの表層に対して働く欲望のこのような特徴を、今度は「過視的」という言葉で捉えてみよう。これは、過剰に過視的という言葉を込めて筆者が作った造語で、見えないものをどこまでも見えるものにしようとし、しかもその試みが止まることがないという泥沼の状態を指している。筆者は前章で「小さな物語への欲求」と「大きな非物語への欲望」の解離的な共存について述べたが、このような観点で捉えると、その両者は過視的な関係で繋がっているとも言えるかもしれない。見えるもの(小さな物語=シミュラークル)から見えないもの(大きな非物語=データベース)へと遡行しようと試みながら、しかし果たされないままに小さな物語の水準を横滑りしていく、そういう不発の構造が、筆者がここで「過視的」と名づけたいものだからである。
 近代のツリー型世界では、表層と深層、小さな物語と大きな物語の両者は相似関係で繋がっていた。したがって、人々は前者から後者へと遡行することができた。これを「見えるもの」と「見えないもの」の比喩で捉えれば、近代では、まず小さな見えるものがあり、その背後に大きな見えないものがあり、前者から後者へと遡って、見えないものをつぎつぎと見えるものに変えていくことが世界理解のモデルだったと言うことができる。近代的な超越性とは、何よりもまず視覚的な運動だったのだ。
 しかし、ポストモダンのデータベース型世界では、その両者はもはや直接に繋がることがない。小さな物語は大きな非物語を部分的に読み込むことで生まれるが、同じ非物語からはまた別の小さな物語が無数に生まれうるのであり、そのいずれが優位かを決定する審級はない。つまり小さな物語から大きな非物語へと遡ることはできない。したがってここでは、まず目の前に小さな見えるものがあり、そしてそこから見えないものに遡ろうとしたとしても、それは見えた瞬間にただちに小さな物語へと変わってしまい、それに失望してふたたび見えないものへと向かう、という際限ない横滑りの運動が生じることになる。
 この可視的なポストモダンの超越性は、視覚的な近代の超越性と異なり、つぎつぎと階層を遡りはするが、決して安定した最終審級に辿りつくことがない。おそらくはここからは興味深い哲学的な問題がいろいろと出てくるだろうが、そちらの展開はまた別の機会に譲ることにしよう。pp.158-161