蜜柑のプロジェクトverβ

シホンシュギ、ヒャハー

サム・キーン、佐藤卓巳、佐藤八寿子訳、1986、1991=1994『敵の顔-憎悪と戦争の心理学-』柏書房


敵の顔―憎悪と戦争の心理学 (パルマケイア叢書)

敵の顔―憎悪と戦争の心理学 (パルマケイア叢書)


ダワーの(1986=2001)『容赦なき戦争』を読んだので関連してこれも。
http://d.hatena.ne.jp/ReSpace/20131126/1385480110


ほとんど同時(1986年)に発表されたのか?



第一章まで。

敵を表象する型。

■前提、問題意識

初めに敵ありき。武器がくる前にイメージがある。われわれは人を殺したいと「思い」、それからいざ実際に相手を殺すことのできる闘斧や弾道ミサイルを発明するものだ。プロパガンダはテクノロジーに先行する。
…問題はわれわれの理性やテクノロジーにあるのではなく、心のかたくなさにあるようだ。世代から世代にわたり、互いに憎しみ合い相手を非人間化することの言い訳はされ続け、最も耳障りのよい政治的レトリックでもって、われわれは自己正当化するのが常だ。そして明白なものを認めることを拒む。われわれ人類は敵対人(ホモ・ホステイリス)、つまり、敵対する種、敵をつくる動物なのだ。…われわれの内面の悪魔から、公共の敵を呼び出す。…われわれの関わる戦争は、強迫的な儀式であり、「影」のドラマなのだ。われわれはそこで、いつもわれわれが否定し軽蔑するわれわれ自身の暗部を抹殺しようとし続けている。
…今や敵対人(「敵意をいだく人間」)の精神を探求する時だ。われわれが敵のイメージをいかに捏造するか、過剰の悪をいかに創作するか、いかにして世を殺戮の地と変えるかを、よくよく吟味しなくてはならない。政治的パラノイアの論理と、敵意を正当化するプロパガンダの創作過程とを理解するようにならない限り、戦争を抑制することにそれ相当の成功をおさめうることはなさそうだ。pp13-14

…この敵の非人間化の過程はさほど吟味されてこなかった。自分の「影」を投射する時、人は反射的に自分のしていることに眼をつぶるものだ、憎悪を大量生産するためには、国民は自らのパラノイア、自己投射、プロパガンダに無自覚でいなくてはならない。「敵」はかくして岩石や狂犬のように現実的で客観的なものとみなされる。だからわれわれの最の仕事は、このタブーを破ることだ。国民の無自覚を自覚し、われわれが敵をつくりだす過程を省察することだ。pp17

第一章:
敵を特徴づけるために異なる時間と場所で繰り返し用いられたイメージに焦点を絞る。…敵の「元型」と呼んだであろうものの追及。
戦争、環境の変化にかかわらず、「敵意のイマジネーションは、敵を非人間化するために用いるイメージの一定の規範的レパートリーをもっている、…変化する出来事に永遠の元型をあてはめている。pp17」
第二章:
敵に投射した「影」の再現方法
最終章:
敵意の未来


■敵の元型(13種類)

・見知らぬものとしての敵(共感性パラノイア)
・攻撃者としての敵(パラノイアの論理)
・顔のない敵(非人間化するプロパガンダ)
・「神の敵」たる敵(応用神学としての戦争)
・野蛮人としての敵(文化への脅威)
・貪欲なる敵(帝国への欲望)
・犯罪者としての敵(アナーキスト、テロリスト、そして無法者)
・拷問者としての敵(大衆サディズム)
・強姦犯としての敵(褒章そして戦利品としての女性)
・けだもの、爬虫類、虫けら、病原菌である敵(皆殺しの認可)
・死としての敵(究極の脅威)
・あっぱれな敵(英雄的な戦い)
・抽象概念として敵(究極の侮辱)

  • 抽象概念として敵(究極の侮辱)

憎むに値するイメージすら敵に与えないほど、いかに徹底的に敵が非人間化され除去されてきたかを見るには、今日の戦争の歪曲的な言いまわしを考察しなければならない。…遠くから手を汚さずに人を殺そうとする以上、兵器が引き起こす結果の想像は慎まねばならず、いずれにせよ敵も人間であるという意識は、完全に除去されなくてはならない。…戦士が道徳的配慮をせず、ただ技術的配慮をせず、ただ技術的に意志決定するなら、敵は一個の数字記号、統計的単位にまで縮小される。戦士も敵も消えてしまっている。生き、感じ、苦しみ、悲劇的で、残酷で、同情し、勇気があり、また恐れもし、不安に満ちた人間はもう戦場のどこにもいない。…軍事の未来派たちが二〇〇〇年の空地戦における人間的側面について考察する際、工作人(ホモ・ファーベル)と敵対人(ホモ・ホステイリス)という歴史的連合の究極的は勝利とその宿命を述べるとしても、少しも驚くべきことではない。pp94-95

非人間化、相手への想像力欠如



敵の元型的イメージの毒々しさと頑固さは、奇妙なことに、希望があることを示す隠れた証拠である。まさしくわれわれが生来のサディストでないがゆえに、しきりに敵の品位を下げて視覚化している。いずれにせよ、自分と同じ種族を殺さないという自然の性向をわれわれはもっているので、本能的な同情心を克服し敵を殺せるようになる前に、敵を自分たちとは似ても似つかぬおぞましいものにしなくてはならない。「敵対人」はメディアと制度によってつくりあげられねばならない。それらは武勇談、イデオロギー、合理化、部族神話、通過儀礼、敵のイコンといったかたちで絶え間ない教化の下に「敵対人」を支配している。共感性パラノイアを保持し、敵との対抗に支配された精神を創りだすためには、全面的に制度化されたシンボリック社会装置が必要である。pp197

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■希望としての殺人へのためらい

だが、そうした努力も小さなマイノリティ集団にとってのみ有効である。われわれの最高のプロパガンダにもかかわらず、ほとんどの男性と事実上全員の女性が、敵を実際に殺そうとはしなかった。…軍隊は兵士が抱く戦死の恐怖をうまく処理することはできたが、彼らが殺人をためらうことに十分な対応はできなかった。p197