蜜柑のプロジェクトverβ

シホンシュギ、ヒャハー

赤澤、高岡(1997)の批判

『年報日本現代史』(1997)において「総力戦体制をどうとらえるか―『総力戦と現代化』を読む―」という論評が行われている。
特に山之内に関しては赤澤史朗と高岡裕之が批判を行っている。


■赤澤

●言葉の定義の問題:「階級社会」、「システム社会」、「総力戦体制」という論文の骨子をなすキーワードについて明確な定義が与えられていない。3

ファシズムと民主主義の関係性について
山之内ファシズムと民主主義の差はほとんどない】

民主主義体制下でも大衆社会状況の進行に伴い、指摘されるような指摘領域の変質や管理社会化の進行が生じていることは認めつつも、なお私的消極的自由が個人の権利に属するものとして少なくともタテマエの上で認められている民主主義体制と、それがタテマエの上でハッキリと否定されているファシズム体制とでは大きな違いがあるのではないか…。pp.4-5

ファシズムニューディールの関係性について
山之内ファシズム型とニューディール型の相違は、総力戦体制による社会的編成替えの分析を終えた後に、その下位区分として考察されるべきである】

ファシズム型とニューディール型の相違は、たとえなにを本質的な特徴として押さえるにせよ、この問題を考える上で絶対に無視できないポイントの一つなのであって、ここで言えばこれと総力戦体制との関連を整合的に説明できなければこの問題を把握したことにはならない性質ものもだと思われる。pp.5-6


■高岡
山之内の問題提起の核心

20世紀における総力戦という新たな戦争形態は、「社会総体を戦争遂行のための機能性という一点に向けて合理化する」ことを通じ、「生活の全領域をシステム循環のなかに包摂する体制」=「システム社会」を生み出したという主張にある。p11

総力戦を媒介とする「階級社会からシステム社会への移行」という山之内の議論は、「国民国家」論を背景としつつ、以上のような「市民社会派」的パラダイムの有効性喪失を論証し、合わせて現代社会科学の新たなパラダイム=「システム論」を導入するというプログラムと連動している。p12

以上のように捉えた上で、批判する。


総力戦の「近代化」機能については、1980年代に様々な研究があった。
藤原彰「太平洋戦争」『岩波講座日本歴史 現代4』岩波書店、1963
・栗屋憲太郎「国民動員と抵抗」『岩波講座日本歴史 近代8』岩波書店、1977
・木坂順一郎「日本ファシズム国家論」『体系・日本現代史3』日本評論社、1979
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しかし、1980年代以降は縮小


では山之内の議論(「システム社会」論)は現代史研究の活性化に貢献するのか?
→懐疑的
●システム論の適用について

現代史研究は、総力戦が社会の合理化・近代化を推進し、巨大な社会変動をもたらすという論点を早くから提起している。とすれば問題となるのは、もっぱら総力戦の時代を通じて「システム社会」が成立したという点である。…「システム論」とは、本来的に長期の歴史分析においてこそ有効性をもつものなのである。これに対して山之内の「システム社会」論は、総力戦体制を起点に「システム」社会の成立を説いている。…「システム論」の特性から言えば、近代「社会システム」の展開過程の中に、ファシズムないし総力戦体制を位置づけることこそが、有意義な議論を生むことにつながるのではなかろうか。pp.22-23

→「システム論」は長期の歴史分析において有効性を発揮する。総力戦体制を起点にしたシステム成立を説く「システム社会」論ではなく、近代「社会システム」の展開過程の中に総力戦体制を位置づけることが「システム論」として有効である。


●戦後秩序との連続性の観点で、総力戦体制の問題を考察するという手法

第一次世界体制を画期として、19世紀的世界秩序は大きな変動期に突入した。そうした中で、旧秩序に対する「現代」的な選択肢として登場してきたのが、ソ連であり、アメリカであり、ファシズムであった。その意味で、これら三者は相対立する面だけでなく、同時代性の刻印を帯びたものだったはずである。…ところがアメリカのヘゲモニー下における戦後資本主義秩序を引照基準とする本書のアプローチでは、ファシズムの「反近代性」「非合理性」だけではなく、そこに見られるであろう「社会主義」というもう1つの「現代」の影もまた抜け落ちてしまうのである。p23

ソ連アメリカ、ファシズムという選択肢のうち、ソ連社会主義を見落としてしまっている。