蜜柑のプロジェクトverβ

シホンシュギ、ヒャハー

野上(2000)の批判

野上元「戦時動員論再考――「戦争の記憶」との関連で」『年報社会学論集』2000

山之内の応答あり
山之内靖「総論 総力戦体制からグローバリゼーションへ」山之内靖、酒井直樹編『総力戦体制からグローバリゼーションへ』平凡社、2003の注釈13、pp.70-71


山之内「方法的序論」『総力戦と現代化』

現代史をファシズムニューディールの対立として描き出すよりも以前に、総力戦体制による社会の編成替えという視点に立って吟味しなければならない。ファシズム型とニューディール型の相違は、総力戦体制による社会的編成替えの分析を終えた後に、その内部の下位区分として考察されるべきである。p10

→戦時動員をイデオロギーの対立としてではなく、「近代化」の文脈でとらえようとしている。

●戦時動員論での「戦時動員=近代化」という枠組みにおける二つの制約
①戦時動員論における戦争を語ること(「戦争体験」)への関心の薄さ…戦時動員論が動員にある種の合理性の発現をみようとすることからくる。

戦時動員は、その宛先として戦争・戦場をもつのだが、動員の合理性のみを探求する戦時動員論には、その宛先の構造自体を指摘する性能が備わっていないのだ。p163

②復員という契機に関する無視、無関心

その動員の宛先としての戦争・戦場が具体的にはない以上、そこにあるのは戦時動員に対する復員なのであり、あるいは別種の動員なのである。p163

戦時動員が来るべき戦争に備えてなされた想像や予想の集積であるとすれば、その反対の方向を持つ復員は、戦争を記憶し(あるいは忘却し)、戦争を語り、記録してきた集積の持つ重みと釣り合っている。p164

→「復員」のモメント(武装解除、抑留、収容所、引き揚げ、帰郷、失業、戦災孤児、戦争未亡人、傷痍軍人、飢餓、補償、恩給、闇市など)が「改革」のモメントと関連しながら、いかなる形で社会変動につながったのかに対する評価が必要なのではないか。


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山之内の応答:注釈13

野上の批判は「戦争の記憶」の形成を戦争終結時における「復員」の過程に直結するという単純な手法に依拠している。このため、野上の思考からは「記憶」の形成が同時に「忘却」や「隠蔽」の過程でもあったという重要な問題が抜け落ちてしまう。p70

――山之内の「記憶」に関する言及:本文中

ある記憶が時代のなかで正当性を獲得するということは、その反面で、それとはそぐわない数多くの記憶が抑圧され、忘却されていることを物語っている。その忘却の穴を埋めるようにして「偽りの記憶作り」がひそかに、あるいは大がかりに進行したのである。…ルーマン流の大雑把なマクロ分析では…ミクロ的で主観的な要素への配慮は主題化されえない。抑圧され、忘却され、したがって辺境化されてしまった記憶がよびもどされつつあるのが現在の歴史学ないし社会科学の状況であるとするならば、その状況を知覚しようとする者は、細心の注意をはらって、辺境化され、歴史の舞台から遺棄されてしまった者たちの痛みを拾いだしてこなければならないだろう。あるいはまた、正当性を確立した側が意識的あるいは無意識的に隠蔽してきた恥部や汚点を、意図的に暴きださなくてはならないだろう。前者の作業が自己相対化と同時に謙虚さやいたわりを込めた感受性を求めるとすれば、後者の作業はおなじく自己相対化を必要とするといってもアイロニーを含むものとなり、ときにはスキャンダルを表に出す蛮勇を求めることとなる。pp.34-35