蜜柑のプロジェクトverβ

シホンシュギ、ヒャハー

山之内靖、岩崎稔、米谷匡史「討議:空間・戦争・資本主義」『現代思想』1999、12


●米谷の総力戦体制批判

総力戦として時代を捉えるとすればどうしても一国的観点に後退していくことになる。p36

山之内さんの議論は、ドイツ、日本、アメリカといった旧宗主国・先進国の戦時動員体制を横並びにならべて、比較戦時体制論をやるという枠組にどうしても見える。階級社会からシステム社会への移行という時間軸上の展開を、ドイツ、日本、アメリカからそれぞれに取り出して、比較しながら論じるという枠組にどうしても見えていましたから、それでは空間的な問題が欠落しているのではないか、殖民地との関係をふくめた帝国の再編・ねじれを考えるならば、戦中・戦後のスムースな連続をとりだすことはできないのではないか、という疑問が出てきますから、そこを批判していたわけです。p38

社会変動と空間の再編が連動した構造変化…それは単に帝国の内部だけでおこったことではない。帝国の外部もふくめた世界秩序の変動がそこで問題になっているわけです。p38

→内部と外部という問題。山之内の議論ではシステムは閉じているため、内部と外部は見えにくい。

続いて、米谷は

国家による動員の内部では、典型的な外部[引用者注:階級的な敵対者]からの抵抗は消されてしまったかもしれない。しかし、そこでは同時に、国家の動員に対する抵抗が、その領域の外部からは行われていたわけです。そして、その動員の内部においても、内部にとりこまれながらも、とりこまれること自体が抵抗であるような受動的な抵抗が継続していました。p44

→→具体例は『アジア/日本』へ?
―「階級社会からシステム社会へ」というテーゼは国民国家という一国単位の空間に閉じてしまい、またそこに境界線をしく。しかし、総力戦体制には植民地などが存在し、その植民地などでは抵抗が引き起こされていたのではないか、そこでは境界線は内部に取り込んでいく契機として「ある」が、取り込まれること自体が抵抗であるような受動的な抵抗という契機として「ない」。


山内の歴史観

二〇世紀の現代国家がすべての存在者をシステムの内部に組み込んでしまった、しかも九〇年代のグローバリゼーションのなかでそのシステム合理化がさらに強まって、もはやシステムの外部がなくなってしまうp44

米谷の批判的考察としては

システム動員による合理化にたいして、おそらく内部にも外部にもさまざまな位相の抵抗があって、多様な形で連鎖している、その規律化のプロセスのなかには、同時に解放の条件も生みだされているのではないかという両義性を考えたいんです。pp.44-45

―システム動員の外部との関係に注目する。システムの内外を貫く問題系が存在する。


戦時期の経験というのは、ネーションでは囲い込めない経験だった。しかしそれが、戦後に振り返って語られる時には、日本にしても中国にしても、ある一国的なナショナリズムの記憶のなかに囲い込んで語るという形でしか振り返られなかったわけです。おそらくそれこそが、今、問われなければならないのではないか、戦時期に起きていたような、ネーションによって囲い込めないような軋み・ねじれ・歪みを、今、再度、どう語りなおせるか、そこが問われているのだと思うんです。…あるシステムによる規律化・合理化のプロセスにおいて、内部の受苦と外部の受苦とがいかなる回路によって連鎖し、相互作用・相互反射を起こしているのか、それを構造的に分析していくような歴史の記述スタイルが必要なのでないか。p49

⇒時間軸上の分析に対する批判、
 空間的問題の欠如…植民地etc



●二項対立克服のための総力戦体制論:山之内

・2項対立…中心/周辺、資本主義/非資本主義、帝国主義/植民地