蜜柑のプロジェクトverβ

シホンシュギ、ヒャハー

多木浩二『都市の政治学』岩波新書、1994

都市の政治学 (岩波新書 新赤版 (366))

都市の政治学 (岩波新書 新赤版 (366))


おもしろいのだけれど、あーなんかーあーなんかーモゾモゾみたいなw
教科書的な書籍。
とりあへず参考文献とかは書いといてほしい。


都市の流動性とか政治学的視点とか文化の2文法(美的、知的な作品が社会に登場する仕方/普通の生活p61)とかは参考になるかもしれない。


■派生
ベンヤミン
ノルベルト・エリアス



・都市の流動性p18

少なくとも19世紀以後の都市とは、もともと醜いもの、いかがわしいもの、不快なもの、苦痛なものを呑み込んではじめて成立するような、そんな容量のひろい仕組みなのである。

政治学…諸力の関係する構図p18
・メディアとしての都市p129

「都市」は、われわれとわれわれを超えたものを含めた世界を認識するための、ひとつの媒介的な用具になっているのである。


■<美的なもの>としての都市

 理由はともあれ、都市は衰亡することに極度に不安であり、しかもユートピアは描くにも描けないことを諸般の事情のなかで知悉しているときに、衰亡を回避しようとしてイベントが構想されるのである。イベントは永続的ではなく、根も葉もないでっちあげである場合を含めても、都市の活動を表象する記号的行為であることは認めておかねばならない。イベントとは、カーニバルが通用しないまでに構造が変質した都市が、衰亡を防ぐ仕掛けなのである。都市は、経済的活動の充足を期待するためにも、みせかけにしろなんらかの生命を賦活するイベントの発生を活用しないかぎり、次第に老朽化していくことを知っているのである。
 そのために建築物を有名建築家に建て替えさせたり、スポーツ施設をつくって群衆を発生させたり、ショッピング・センターを建設して沸き返るような消費現象をつくることに熱中する。それは多少とも恒常性をもった企画である。ときにはこうした都市の改造のために、もっとも一過性のイベントが利用されることがある。たとえばずっと昔のことになるが、東京オリンピックは、東京を改造するためにフルに活用されたイベントであった。イベントは人びとのあいだにひとつの活気ある接触を生む「文化」的な場をつくる口実である。
 イベントはあくまで文化的でなければならないのである。かりに特産物を売り出すにしても、物に文化的な意味をあたえないでは経済効果も獲得できない。この曖昧な文化という概念をはっきりさせないまま、都市行政では文化という言葉だけが動いている。ドイツの歴史社会学ノルベルト・エリアスが文化を二つに分けて定義するのは、傾聴に値する意見である。ひとつは、美的ないしは知的な作品が社会に登場する仕方である。もうひとつは普通の生活のことである。しかし芸術家ないしは思想家というものは、決して社会全体に影響をもち関与するものではないし、大衆はこうした知的生産物に直に接触するのではなく、何重かのメディアを通して経験するにすぎない。極言すると、現代の芸術や思想は決して大衆に関係のない、だがいつの日か、もうひとつの文化(生活)に浸透している可能性がありうる高度の認識と想像力に属するものである。
 しかしもうひとつの文化としてのごく普通の生活実践は、都市を構成している中心的な活動のひとつであり、社会をある方向に向けて統合していくほどの感情の力をもつし、それはある時代の世界像にも深くかかわっている。このような意味での文化は、やがて制度を形成していく萌芽でもあれば、人間相互を関係づけている構成力でもある。いうまでもなくそれは意味の世界を構成している。現在のイベントがしきりに「文化」を強調するとき、こうした文化の二つの意味が曖昧にされている。イベントで使いうる「文化」という言葉は決して芸術や思想をさす言葉ではない。イベントは、この普通の生活文化を領域とするものでありながら、それを非日常化してみせる表象行為である。この文化における非日常性は、気晴らしやエンターテイメントというかたちをとるのが普通である。都市の行政者たちは、このようなアミューズメントが、都市全体にかかわる「文化」の一面であるということをしばしば忘れているが、そのことが根本的な間違いを引き起こすのである。[60-62]